これから数回に分けて墨田区内の勝海舟ゆかりの地を巡ります。その第1回は、まずJR両国駅から海舟生誕の地を目指します。駅から400メートルも東側に歩くでしょうか、京葉道路より路地一つ南側に入ったところにある両国公園内に「勝海舟誕生の地」の石碑が建っています。
海舟は、文政6年(1823年)本所亀沢と呼ばれていたここ男谷邸内で、勝小吉の長男として生まれました。海舟は男谷邸で、従兄弟で剣聖と呼ばれ、竹刀の考案者としても知られた男谷精一郎から剣術の手ほどきを受けました。その後、その弟子で剣豪の名が高かった島田虎之助から浅草新堀道場で剣術を習ウことになりました。両国公園は、ちょっと大きな保育園程度の敷地面積しかありませんが、緑の少ない両国四丁目周辺の緑のオアシスになっています。この公園の西隣の両国小学校に芥川龍之介の文学碑が、そのわずか西に赤穂浪士討ち入りで有名な吉良上野介邸跡がある等、この地域は歴史と文化の香り豊かな地域となっております。
両国公園から京葉道路を東へ600メートル程歩いて江東橋の手前の通りを南に曲がると、坂田建設の本社前に「史跡 勝海舟揺籃の地」の標柱があります。
他方、先の江東橋手前の通りを北に曲がると、墨田区立江東橋保育園があり、その正面に墨田区教育委員会の「勝海舟居住の地」との説明板があります。それによると海舟は、天保二年(1831年)9歳の時から弘化三年(1846年)24歳の時までこの岡野氏の屋敷で暮らしていたことになります。
一般に海舟がその幼少年時代を過ごした地を示すものとして有名なのは坂田建設の本社前の「勝海舟揺籃の地」の標柱で、殆どのガイドブックに海舟揺籃の地として紹介されています。果たしてどちらが正しいのでしょうか?
その辺は次回の宿題としておくとして、岡野氏は、1600石の旗本とはいえ、当主の孫一郎が放蕩者で莫大な借金があったため、まともに家来を持つことすら出来なかったと言われています。そのようなところに、同じく放蕩者で御家人の組屋敷では生活が成り立たなかった勝小吉(海舟の父)一家が転がり込みました。小吉は、ここであたかも岡野氏の家来のような形で生活をしていたというのが実相のようです。御家人とはいえ将軍に直接仕える身ですから、このようなことは本来ならあり得ないことなのですが、岡野氏と小吉両者には、持ちつ持たれつの関係が成り立っていたのでしょう。侍と言って威張っていても、生きていくことは大変だったことを窺わせます。不況下に生きる我々にとっても身につまされる話ですね。