さて勝海舟がその幼少年時代を過ごした地は、坂田建設本社地か江東橋保育園地のどちらなのでしょうか?
海舟一家が岡野孫一郎邸で生活していたことははっきりしていますので、岡野邸があったのはどちらの地であったかが明らかになれば、答えは自ずから出てくる筈です。
私の手許にある人文社の「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」から、嘉永年間(1848~54年)に制作された本所絵図と現代図を対照してみます。
上記本所絵図と現代図をクリックして拡大し、⑭とあるところをみてください。両図の⑭は同一場所を示していますが、現在図⑭のところに「岡野孫一郎。放蕩無頼の旗本で、邸内に勝小吉・麟太郎(海舟)が住んでいた」とあります。
この⑭の場所は、我が下町の太陽法律事務所も面している京葉道路の北側をちょっと入った墨田区立江東橋保育園のある場所と思われます。
本所絵図
現代図
他方、上記本所絵図と現代図もクリックして拡大し、⑮とあるところをてみてください。両図の⑮は同じ場所を示しています。現代図⑮の場所は、京葉道路の南側にある坂田建設本社所在地と思われますが、その場所には、⑮「入江町長谷川平蔵は若い頃時鐘屋敷の側に住み、入江町の銕と呼ばれた無頼の徒であったという」との記載があります。この長谷川平蔵とは、池波正太郎の鬼平犯科帳で有名な鬼平のことです。
以上、墨田区教育委員会の説明版に加えて、このような記述にまで出会ってしまうと、前記⑭の場所が海舟の育った地であった可能性は極めて高いと思われます。
とはいえ坂田建設本社地が勝海舟揺籃の地というのが、観光マップなどでも未だ一般的な理解だと思われますので、断定するのは避けたいと思います。
どなたかこの辺のところに詳しい方がいらっしゃれば、是非ともご教示頂きたいところです。
ついでに言えば、海舟一家が岡野家の屋敷に転がり込んだ時期についても、説が分かれております。前回、私は「天保二年(1831年)9歳の時から」と書きましたが、これは墨田区教育委員会の説明板に拠っています。
他方、著名な考証家稲垣史生氏や大口勇次郎お茶の水女子大名誉教授等などは天保元年説をとっております。果たしてどちらが正しいのでしょうか。まあ、歴史学的に言えば大した意味はないと思われますが、この辺の探求は追々してみたいと思っております。
さて歴史探訪はこれ位にして、坂田建設本社地から徒歩数分で江東橋を経て大横川親水公園に入ります。第三回は、ここから能勢妙見堂へ向かいます。