三囲神社から北へ300メートル程のところに今回の旅の終着点、弘福寺があります。
延宝2年(1674年)鉄牛和尚によって開かれた黄檗宗のお寺で、江戸名所図会にも描かれた名刹です。中国風の一風変わった山門と本堂は一見の価値があります。

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海舟は第13回で述べた通り、剣術の師島田の勧めに従って、この寺で禅学を始めました。
「・・・座禅を組んでいると、和尚が棒を持って来て、不意に座禅している者の肩をたたく。すると片っ端から仰向けに倒れる。・・・銭のことやら、女のことやら、うまい物のことやら、いろいろのことを考えて、心がどこかに飛んでしまっている。そこを叩かれるから、吃驚してころげるのだ。・・・だんだん修行が進むと・・・肩を叩かれても、ただ僅かに目を開いて見るくらいのところに達した。」「こうして殆ど四年間、真面目に修行した。この座禅と剣術とが俺の土台になって、後年大層ためになった」(氷川清話)と述べて、瓦解の時分、万死の境を出入りして、ついに一生を全うしたのは、全くこの二つの功であった」(氷川清話)と重ねて修行の大切さを説いています。
ともすると教育というと知育一辺倒になりがちな私たちにとって、体育と胆力の鍛錬が大切だとの主張には傾聴すべきものがあります。

「わたしは大正壬戌(注:11年)の年の夏森先生を喪ってから、毎年の忌辰にその墓を拝すべく弘福寺に赴くので、一年に一回向島の堤を過らぬことはない。」(永井荷風随筆集「向嶋」より)
森鴎外が死後この寺に葬られていたことを知る人は少ないと思われます。
「この寺の裏には森鴎外の墓がある。どういうわけで鴎外の墓がこんな東京府下の三鷹町にあるのか私にはわからない」(太宰治「花吹雪」より)と書かれているように、翌年の関東大震災の復興事業として隅田公園が拡張されるどさくさの中で、何故か鴎外の墓は三鷹市の黄檗宗の禅林寺と故郷津和野の曹洞宗の永明寺に移されてしまいました。残念なことです。
因みに、禅林寺は毎年太宰治のフアンが集まる桜桃忌で有名なお寺で、太宰のお墓もあります。
些か海舟から脱線してしまいました。取り敢えず今回をもって海舟ゆかりの地を訪ねてシリーズは一巡りとさせていただきます。