稙髪聖徳太子像は、龍眼寺のお隣の亀戸天祖神社にあるのではないかとの期待を胸に、9月の午後、同神社を訪れました。
社務所を訪ねてみると、幸運にも同神社の田中寛之宮司から稙髪聖徳太子像の有無についてお尋ねする機会を得ました。宮司は、「それは一子相伝ゆえ、あるともないともお答え出来ない」「この地域は昔から水害に悩まされたところで、同神社も何度か被害に遭っている」との含みのあるお話をされながら、「天祖神社御由緒」を手渡してくれました。
この御由緒には、「往年度重なる大洪水大地震、先の大戦等で、文検等流失・焼失し現存の記録、古老の言い伝えによれば」「創建は推古天皇御代(約1400年前)、厩戸王子(聖徳太子)作のご神像をご神体として祀る。」との記載がありました。聖徳太子像があるとの夢だけは持ち続けたいと思います。
ところで、亀戸天祖神社では、この400年以上、例大祭の際は流鏑馬式が行われています。天正年間(1573~1592年)疫病が広まったため、織田信長が同神社に使いを送り、奉幣をするとともに流鏑馬式を執り行った。ほどなく霊験が現れたため、以後例大祭の度この式を行うようになったとのことです。田中宮司から、丁度私が訪れた6日前の流鏑馬の模様を記載した新聞のコピーを頂きました。
明治末期頃までは馬場で行われていたが、都市化が進み、馬場が確保できなくなって、的の前に立って矢を放つ「歩射」になってしまったとのことです。
都会で伝統的行事を続けていく難しさを思い知らされました。
話は変わります。主に都内の小学校の先生方の取材に基づいて、1959年(昭和34年)から産経新聞夕刊で「東京風土記」という漫画地図を中心とした100行(15字詰)の東京案内が始まりました。1961年(同36年)8月まで2年余り、日曜祭日を除く毎日、563回連載され、大好評を博したことがありました。
1993年、この記事が一冊の本にまとめられました。その中に亀戸天祖神社に関わる記載がありました。次回は、この記載を巡って些か脱線させていただきます。