稙髪聖徳太子像とは全く関係のない話で恐縮ですが、「東京風土記」の中に亀戸天祖神社の境内の大平塚は古墳で、縄文式土器が出土しているとの記載がありました。
「あの亀戸天祖神社の境内に縄文式土器が出土した古墳がある」との記載を目にしては、その真偽を確かめないわけにはいきません。
11月の休日、再び亀戸天祖神社を訪ねました。
いくら境内を探してもそれらしい痕跡はありませんので、田中宮司にお聞きしようと社務所を訪ねてみました。あいにく宮司は不在でしたが、ご母堂と弟さんが私の相手をしてくれました。
ご母堂は、「当神社の氏子には墨田区太平居住の皆様が多いから、太平塚というと何か当神社と関係がありそうにも見えます。しかし、私が当神社に嫁に来たのは昭和32年ですから、古墳があったというなら気が付かない筈がありません。矢張り、その記載は何かの間違えではないでしょうか。」と気の毒そうに話してくれました。
ついでに、「当神社の近くにかって入神明宮という神社がありましたが、亀戸香取神社に統合されてしまいました。その跡地には町会会館が建てられています。」とのお話もしてくれました。

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そして、この辺りの道路はくねくね曲がりくねって分かりにくいから、と宮司の弟さんが町会会館まで案内してくれました。
入神明宮跡地には江東区教育委員会の次のような説明版がありました。
「入神明宮は、小高く盛り上がった塚の上に建てられた神社でした。・・・神木の榎は枯れた時に『天下太平』の文字の虫食いが生じたので太平榎と称し・・・明治40年(1907年)、このあたりから中世初期の漁網のおもり『土埵』が発見された。・・・明治に入って天祖神社と改称しながらも永く当地に祀られていましたが、昭和62年(1987年)香取神社に合祀されました。」

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亀戸天祖神社の住居表示が亀戸3丁目38番で、入神明宮跡地のそれが亀戸3丁目41番であることや「小高く盛り上がった塚」「中世初期」「土堹」「天祖神社」といった言葉を繋ぎ合せてみると、太平塚古墳のあった場所は、入神明宮跡地であった可能性があります。しかし、断定するためにはもう少し調査が必要かと思われます。何かご存じの方がおられればご教示ください。