隅田川七福神めぐりの歴史は、文化元年(1804年)向島百花園に集った文人達の発案に始まるとされています。
園主佐原鞠塢(きくう)は、福禄寿の陶像を愛蔵していました。ある初春の一日、百花園で風流に浸っていた文人たちが誰ともなく、福禄寿にちなんだ正月の楽しみ事はないかと言い出し、七福神ができないかという話になりました。
多門寺に毘沙門天が、長命寺に弁財天が祀られていることは分かっていましたが、何とか七福神を揃えようと考えを巡らせ、三囲神社に恵比寿・大黒天の小祠が、弘福寺に布袋和尚の木像があることが判明しました。
しかし、残る寿老人が中々見つかりません。思案を巡らす内、白髭明神は白髭というからには祭神は白い髭のご老体であろうから、これを寿老人としようとなって、七福神が揃ったと言われています。
因みに隅田川七福神めぐりを始めた文化人としては酒井包一、太田南畝(蜀山人)、加藤千陰、村田春海らが知られています。
佐原鞠塢
酒井抱一
太田南畝
加藤千陰
村田春海
この隅田川七福神めぐりは、一巡り4キロの適度の距離と墨堤沿いを遠景の筑波山や数々の史跡を眺めながら散策できることで人気になりました。しかし安政の大地震や明治維新の混乱期のため、明治期前半には一時衰退したと言われています。
明治31年(1908年)、地元向島の人々を中心に榎本武揚ら政府要人、大倉喜八郎ら財界人も巻き込んで「隅田川七福会」が結成され、隅田川七福神めぐりが復興されました。
榎本武揚
大倉喜八郎
明治41年(1918年)には、北村霊南、当舎宝仁らが発起人となって「七福神案内碑」が建立されるなど、再び隆盛を迎えるようになりました。再興後1世紀を経た現在、初春の風物詩としてすっかり定着し、今日では遠隔地からも多くの人々が訪れ、巡拝者数は七草後も加えると年間数万人にも及ぶと言われています。