江戸東京博物館の北側に東京都慰霊堂があります。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起こり、元陸軍被覆廠に逃げ込んだ老若男女約38,000人が火災の竜巻に巻き上げられて窒息・焼死しました。ここで亡くなった方は、全都58,000人の被害者の実に65%に達しました。
1930年(昭和5年)9月、東京震災記念事業協会によって、元陸軍被覆廠跡地に被災者の慰霊のため震災記念堂(伊東忠太設計)が創建され、東京市に寄付されました。お寺のようでお寺でない風変わりな建築物です。とくと、ご覧ください。残念ながら現在改修工事中なので、私が撮った写真はフェンスに囲われています。ネットから拝借した改修前の写真も併せて掲載いたします。
震災記念堂は、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の犠牲者105,000体も合祀して、1951年(昭和26年)東京都慰霊堂と名前を変えて現在に至っています。
関東大震災との関わりで有名な絵は、徳永柳州の油絵です。
慰霊堂壁面に掲げられている中の一枚が次の「火災旋風」と題する油絵です。
震災当時日本海沿岸を進んでいた台風によって、東京でも風速20メートル以上の南風が吹いていました。この南風と熱風によって竜巻のような火災が、午後4時ころから2時間程人々を舐めつくし、吹き飛ばしていったと言われています。
慰霊堂付属施設の震災復興記念館にも、大震災の様子を描いた柳州の油絵が掲げられています。その内の一枚の大作を掲載いたします。
復興記念館には、既にネガは失われてしまっている被災者の群れを写した写真も掲げられています。その凄惨な状況には言葉もありません。
大震災の被害は殆ど火災によって生じていますが、その凄まじさを物語るのものが、記念館の脇に展示してある熔けて固まった釘の塊です。
この記念館には大震災を描いた有島生馬の大作もあります。
この写真の中心部に大きく描かれている女性は、今NHK朝ドラマで仲間由紀恵演じる柳原白蓮です。炭鉱王伊藤伝右衛門の妻だった白蓮は、大正時代随一の美女と言われておりました。その白蓮は、社会運動家宮崎龍介と駆け落ちする一大スキャンダル「白蓮事件」を引き起こしていました。その2年後、震災に遭遇することになりますが、この絵はその時着の身着のままで結核療養中の龍介の元へ歩いて行ったシーンを描いていると言われています。