下町の名園を訪ねて第3回目の目的地向島百花園は、既に隅田川七福神巡りで紹介しております。(当シリーズ第26回) 再登場ということになりますが、前回と重複しないようにご紹介させていただきます。
当園は、1804年(文化4年)に造園されてから200年以上の年月が経っています。江戸時代の賑わいぶりは次の絵図で味わってみてください。
前回、芭蕉の「春もやや けしきととのう 月と梅」との句碑を紹介しました。
芭蕉の句碑と言えば、御成座敷の入り口手前に、「こんにゃくのさしみも些しうめの花」の句碑もあります。
このように句碑は二つもありますが、芭蕉はここを訪れたことはありませんでした。ここができる100年以上も前に死んでいるのですから訪ねようもありませんが。
それはとにかく「春もやや・・・」の句碑は、百花園を絵に見立てた画賛として建立されたと見られています。
芭蕉のものだけでなく、ここにはたくさんの句碑があります。全部で14句碑がありますが、その内9基は明治時代のものです。正岡子規は、事物の簡潔な描写が表現として大切として俳句の革新を目指しました。子規は、芭蕉の句が説明的かつ散文的で詩としての純粋性に欠けるとして批判し、蕪村の句が技法的に洗練されており、鮮明な印象を効率よく読者に伝えていると賞揚しましたので、芭蕉の伝統を重視してきた幕末・明治の俳諧師が顧みられなくなっていました。
ここには、そのような俳諧師の句碑がたくさん残されています。このような風潮に疎外感を感じていた俳諧師たちの中に、芭蕉の道を何とかしなければいけないという機運が漲っていたためだと言われています。以下左から順に、其角堂永機「朧夜や たれをあるしの 墨沱川」、螺舎秀民「芦の芽や田へ来水も角田川」、寶屋月彦「うつくしき ものは月日ぞ 年の花」、井上和紫「紫の ゆかりやすみれ 江戸生まれ」、柘植黙翁「おりたらん 草の錦や 花やしき」の句碑群です。
さて、肝心の花を語らずして百花園を語るわけにもまいりません。百花園と言えば、秋の七草が有名ですが、私が訪ねた時期は6月。名物の萩のトンネルに花はありませんでした。
季節柄、百花とはいきませんでした。それでも素敵な花が私を迎えてくれました。順に、「あまぎあまちゃ」「かわらなでしこ」「くがいそう」「露草」「撫子」「ニッコウキスゲ」「紫陽花」と思われます。素人判断なので花の名は間違っている恐れがあります。その節はご容赦ください。
次に御成屋敷に触れないわけにはいきません。将軍家斉、家慶もここに入ったといわれており、2045年3月10日の東京大空襲で焼失するまで茅葺屋根の数寄屋建築の建物でした。現在の建物も庭にマッチした中々の佇まいを見せています。 中では宴会も開けるようになっていて、私も今年の墨田中小企業家同友会の納涼の夕べに利用させてもらう予定です。
また庭には東西に細長い池が走っています。この東側から池越しに見るスカイツリーは趣があり、都会にいることを一瞬忘れさせてくれる佳景と言うことが出来ます。