下町の名園シリーズ第4回目は、堀切菖蒲園を訪ねます。
江戸時代には江戸百景の一つに数えられ、歌川広重の浮世絵にも登場しました。
その始まりには2説あります。室町時代、堀切村の地頭久保寺胤夫が家臣に命じ、郡山の安積沼から花菖蒲を取り寄せて栽培を始めたとする説と江戸時代、百姓の小高伊佐衛門が趣味で各地の花菖蒲を集めて庭で栽培したのが始まりだとする説です。権威づけのためには前説の方がよいのかもしれませんが、江戸時代以来庶民に愛され続けた菖蒲園にとっては後説の方が相応しいと思います。
「愛され続けた」と言いましたが、昭和に入ると堀切一帯の菖蒲園は衰退の一途を辿りました。関東大震災後、周辺の住民は疎開を始めました。その跡に工場等が建てられて都市化が進んで、川の水質汚染が深刻化してしまっただけでなく、菖蒲特有の連作障害が生じてしまったからです。
辛うじて残ったのが堀切菖蒲園で、1959年(昭和34年)東京都が購入して都立公園となりました。現在、マンションンに囲まれ、些か情緒に欠けると言わざるを得ませんが、様々の困難を乗り越えてこのような名園が残されていることを、喜ばなければいけないのかもしれません。
前置きはこの程度にして、菖蒲を見て回ります。
敷地面積は7,736.45㎡と、それ程大きな公園ではありません。
200種、6,000株の菖蒲が、一番田から20近い田に分けて植えられています。時期が若干早かったのか、6分咲きといったところでしょうか。それでも菖蒲を十分堪能できます。
園内にハナショウブとアヤメとカキツバタの三種の花の識別法が記されていますが、この識別はこの説明をもってしても容易ではなさそうです。
さて肝心な菖蒲です。
菖蒲には外花被と内花被がありますが、外花被のみ3枚発達した三英咲と内花被が外花被とほぼ同じ大きさになって3枚に見える六英咲があるとのこと。早速、三英咲と六英咲の識別に掛かりましたが、余よくわかりません。
次の「十二単」と「金鶏」は、有名な品種とのことですが、果たしてどちらなのでしょうか?
一通り園内を巡回した頃、菖蒲田の間に中村汀女が1959年6月20日ここに遊んだ際ひねったという句碑がありました。
「花菖蒲かがやく雨の走るなり」
私の散漫であった菖蒲園の印象が鮮やかに纏められています。中々こうはいきません。名人芸に脱帽です。