猶ゆきゆきて武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それいをすみだ河という。その河のほとりにむれゐて思ひやれば、限りなくとほくも来にけるかなとわびあへるに、渡守、「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らんとするに、皆人物わびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつつ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人見知らず。渡守に問ひければ、「これなん宮こどり」といふをききて、
名にし負わばいざ事とはむ宮こ鳥わが思う人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり
有名な伊勢物語の一節です。この作者が在原業平なのか紀貫之なのか争いがあるところですが、九世紀頃の隅田川の情景を描いています。ひどく寂しいところながら、既に渡し船が通っていたことが分かります。
隅田川は、万葉集では「角太」、吾嬬鏡では「墨田」、正保政国図では「須田」と記されているなどいくつかの異字で表記されてきましたが、元々「洲」であったところから名づけられたと言われています。
果たして渡し船が通っていた場所がどこなのかは、B級歴史探偵としては興味のあるところです。かっての橋場の渡し、現在の白髭橋近辺というのが通説のようで、この場所は石橋山の戦いに敗れて安房へ落ちながら、やがて8万の軍勢を従えて武蔵の国に渡河した地点とも言われています。
さて肝心な梅若伝説です。梅若伝説は、伊勢物語から約百年かけて次第に形を整えてきたといわれています。木母寺に現存する絵巻物「梅若権現御縁起」(延宝7年(1679年)高崎城主安藤重治寄進)の伝える梅若伝説を見てみます。
「梅若丸は、吉田少将惟房卿の子であったが、5歳の時父を失い、7歳の時比叡山に登り修学した。山僧の争いに巻きこまれて大津に逃げたが、そこで信夫藤太という人買い騙されて東路を行き、隅田川原に辿りついた。そこで旅の途中から罹患していた病が重篤化してついに帰らぬ人となった。時に12歳、貞元元年(976年)であった。
梅若丸がいまわの際に詠んだ歌が有名な
「尋ね来て 問わば応えよ都鳥 隅田川原の露と消えぬと」
であった。
この時、天台の僧忠円阿闍梨がたまたま通りかかり、里人と図りて一堆の塚を築き、柳一株を植えて標とした。
翌年3月15日、梅若丸の母が我が子を探して、この川原に来て愛児の末路を知って涙にくれた。その後、この地に草堂を営んだが、悲しみのあまり鏡が池に身を投げてしまった。僧阿闍梨は母の墓所を作り、梅若丸は山王 権現として生まれ変わった。」
この伝説を能の世界に取り込んで謡曲隅田川として大成したのが、世阿弥(元弘3年(1333年)生まれ)でした。世阿弥は、足利三代将軍足利義満に引き立てられて申楽を能にまで高めたといわれています。
今回は些かうんちく話に偏してしまったようです。次回から私のデジカメ写真片手のフィールドワークに戻ります。