天台の僧忠円阿闍梨が築いた塚に由来する梅若塚は、木母寺の境内にあります。今回はその木母寺を訪ねることにします。
太田道灌が梅若塚に詣でて修復した際に梅若寺が建てられ、家康が鷹狩の際に立ち寄って梅柳山との山号を授けられ、慶長12年(1607年)梅若寺に詣でた前関白近衛信尹から木母寺の名が授けられたといわれています。隅田川ものの隆盛に伴って18世紀に入ると一般庶民にも親しまれるようになり、観光客が引きも切らなかったといわれています。
現在の本堂も、鉄筋コンクリート造の建物ではありますが、中々個性的な佇まいを見せています。
問題なのは、その立地場所です。東武線鐘ヶ淵駅から木母寺を目指して西側に歩き始めると、延々1.2キロにわたって南北に延びる巨大な長城のごとき高層アパート群が見えてきます。一番北側の1棟が東京都住宅供給公社コーシャハイムで、次いで都営団地白髭東アパート1号棟から18号棟までが南北に連結されて聳えています。
この高層アパートの切れ目を縫ってアパートの西側に出ると、正しく「トンネルを出るとそこは雪国だった」風に、周辺の民家が立ち並ぶ風景と全く切り離された、隅田川まで幅300メートル位、長さ白髭橋の袂まで1.2キロ位 の細長い緑の異空間が出現します。
この空間には、東京都の防災拠点建設事業実施により、1976年(昭和51年)東白髭公園が造られ、その脇に木母寺、隅田川神社が佇んでいます。
この木母寺、防災事業実施前は、もっと東寄りに160メートル程の地点に建てられていました。東白髭公園が造られると同時に現在地に移転させられたのです。
いざ震災という場合は、近隣住民はこの異空間に逃げ込めば助かることになっているようですが、この分断された異空間をどう評価したらよいのでしょうか?人間の叡智の現れと見るべきでしょうか?科学技術が咲かせた仇花と見ることも出来るのでしょうか?
いよいよ有名な木母寺の梅若塚ですが、何とこの塚はガラスケースに覆われています。
防災地域内にあるためのやむを得ない措置とのことですが、些か興ざめなことは間違いありません。本堂も、やはり同様の措置のため、木造ではなくて鉄筋コンクリート造にせざるを得なかったとのことです。
梅若塚の現状だけでなく、元々の所在地も些か残念な現況にあります。
そこは都営団地白髭東アパート9号棟の直下東側の梅若公園の中にあります。
この公園は、由緒正しい名前が刻まれているにも拘わらず、高層アパート直下の小空間であるため注意してみないと、見落としてしまうような小空間です。
その一角に梅若塚跡地と刻まれた石碑がひっそりと、榎本武揚の銅像が威風堂々と建立されていますが、いずれも余り目立ちません。
さて本堂を訪ねた際には、有名な絵巻物「梅若権現御縁起」3巻があると聞いていましたので、ご住職に見せていただきたいとお願いしてみました。ですが、劣化防止のため一般公開はしていないとのことで断られてしまいました。
次回は、この「梅若権現御縁起」に触れてみたいと思います。