慶長12年(1607年)、前関白近衛信尹が梅若寺に詣でた頃から、木母寺の縁起ができたといわれており、ストーリーは、「隅田川」と同様となっています。
絵巻物「梅若権現御縁起」3巻は、延宝7年(1679年)、磐城平城主安藤対馬守重治が、この縁起をもとに狩野派の画工に描かせたものと言われています。
ちょっと寄り道ですが、鐘ヶ淵駅から西へ木母寺へ向かって歩いてくる途中に成林庵という尼寺があります。庵というところからもお分かりの通り、表から見ては普通の民家と変わらないので、一度やり過ごした後にやっと見つけることが出来ました。
成林庵という表札がひっそりと掲げられているだけの民家風の建物です。
そっと引き戸を開けると、打ち水がされた清楚な雰囲気が漂っていました。
呼び鈴を押して見学をお願いしましたが、一般公開はしていませんと言われて中に入ることはできませんでした。
実はこの庵は、安藤対馬守重治に仕えた老女千代が、主君夫妻の菩提を弔うため建立したとのこと。かっては、ここからも墨堤の桜が眺めることが出来、毎年4月の大般若法要には花吹雪の中、続々と客僧が集まってきたと言われています。
さて、木母寺と目と鼻の先のところに隅田川神社あります。現在地は、防災拠点建設事業のため100メートル程南に移転しているそうです。かっては水神の森と呼ばれた鎮守の森に覆われた風光明媚なところであったようで、広重の浮世絵にも描かれています。
直ぐそばには、平安時代末頃には成立していたと言われる古東海道の渡河地であった隅田宿の跡地であることを示す説明板があります。
現在の神社は、残念ですがすぐ西側には高速道路が走り、情緒をそがれること夥しいものがあります。とはいえ、源頼朝挙兵の折の治承4年(1180年)、この地に至り霊験を感じて社殿を造営したとの伝承が残る源頼朝ゆかりの神社です。そんな歴史に思いを馳せるためには、そっと目をつぶって想像力の翼を広げるしかありません。
前回、頼朝の渡河地点が現在の白髭橋付近だとするのが通説とお話ししましたが、旧隅田川神社所在地は白髭橋から900メートル程上流になります。「果たして渡河地点はどちらなのだ?」と疑問が湧きます。
いかんせん昔のことですので正確なことまでは分かりませんが、「白髭橋から隅田宿までの幅のある場所が渡河地点ということで了解されている」というのがB級歴史探偵の現時点での調査結果、ということでご勘弁ください。