東向島の白鬚神社の今井達宮司をご紹介いたします。
私より大分お若いので白鬚にまで至っておりませんが、いずれは立派な白鬚を蓄えられるだろう、と思わせる白鬚神社に相応しい風貌の宮司さんです。
白鬚神社は、高麗神社の系列の神社なのではないか、との仮説をぶつけた私に宮司さんは、こう仰いました。
「高麗神社の周辺の白髭神社が高麗若光伝説に包まれた神社であることは、その通りかもしれません。
しかし、だからと言って高麗郡から荒川を下ったところにある当社など下町の白鬚神社が、その流れを汲んでいるということはできません。高麗郡から荒川を下り高麗郡の東側に勢力を伸ばすためには、入間郡に勢力を誇ってい た氷川神社群の影響力を取り除かねばならなかった筈ですが、それは難しかったと思われます。」
私が、「それでは当社を含めた下町一帯の白鬚神社は、どんな経緯でここに社を構えるようになったのですか。」とお聞きすると、「江戸初期までは、向島一帯が多少盛り上がっていたにしても、基本的にこの地域は直ぐそばまで海が迫っている低湿地でした。その海から入ってきたと考えられます。」と仰いました。
高句麗の王族であった渡来人高麗若光は、朝廷の東方移住政策に従って一族を率いて海路大磯に上陸し、その地の高麗山の麓に移り住んでいました。大磯には、高来神社が現存しており、この神社名は高麗に由来すると言われています。
「続日本紀」によると、716年、高麗若光は東国の7つの国の高麗人1,799人のリーダーとして高麗郡に集団移住しました。そして高麗神社に祭られることになりました。
このように海路東国に上陸した人々によって造られた神社が他にもあったと考えることは、決して無理な想定とは思われません。下町の白鬚神社群が、高麗人に限らず大和地方から海路東京湾にまで辿りついた高僧などによって創建された可能性は十分あると思われます。
何故お坊さんが?と思われるかもしれませんが、神社の由来記にお坊さんが出てくる例は、東向島の白鬚神社が慈恵大師ゆかりの神社であることからもお分かりのように、枚挙にいとまがありません。神仏習合の伝統からするならば、このようなことは、何ら不思議ではないのです。
宮司さんと千年の昔に思いを馳せながらのお話に夢中になって、気がつくと納涼会の時刻も迫っていました。もうお暇しなければと腰を浮かすと、「ちょっとお待ちください」と拝殿へ戻られた宮司さんから、有難くもお神酒を賜ることになりました。
お賽銭もしないまま、手ぶらで教えを乞い、お神酒まで頂いてしまうなんて何と罰当たりなのでしょうか。そんな私は、お神酒を納涼会の遅刻の目くらましに使うという罰当たりな真似を重ねてしまいました。今井宮司さんは私の両国高校の後輩とのことです。不肖の先輩をお許しください。