今回は、墨田区内にあるもう二つの白髭神社を巡ります。

 立花白髭神社の歴史は、葛西川村の鎮守社として天和2年(1682年)、当時の庄屋鹿倉吉兵衛、関口一郎の両名が幕府の許しを受けて現在地に社地を定めたことに始まると言われています。

鳥居の前に立つと、些か細長いながら奥行きのある参道が続いています。

    白髭立花参道   

 拝殿は大正12年(1923年)に再建されたものです。

    白髭立花本殿

  その西側の境内に古びた鳥居が置いてあります。安永九庚子年(1780年)6月と刻まれた花崗岩製の明神型鳥居で、墨田区内では明和元年(1764年)製の三囲神社の鳥居に次いで古いものです。それにも  かかわらず、余り保存状態が良いとは思えません。

   白髭立花旧鳥居

  参道を戻る道すがら、何気なく神社への寄付者芳名録に目をやると、お亡くなりになった旧依頼者のお名前がありました。生前のお姿を思い出しながら、黙祷を捧げてきました。

  ここから徒歩10分余りで東墨田の白髭神社に到着します。

  貞観2年(806年)創建と言われ、上木下川村、下木下川村の鎮守社でした。

かっては荒川放水路の中央に鎮座されていましたが、荒川放水路開設に伴って、大正4年(1915年)、現在地に移転鎮座されました。

拝殿は土手と並行に走る道路に面した鳥居の正面ではなくて、直角に設けられています。

    白髭東墨田鳥居   白髭東墨田社殿全体   白髭東墨田拝殿

  このような異例ともいえる神社配置は、現在地の地形から来る制約のためだろうと思われますが、神様も些か窮屈な思いをされているのではないでしょうか。

  前回、下町の白鬚神社が高麗神社に由来するものではなかろうとのお話をさせて頂きました。しかし、そもそも総本社の白鬚神社は新羅からの渡来人に由来するとの説が有力に唱えられています。

  総本社の白鬚神社は、天武天皇から比良明神の号を賜ったとも伝えられているところ、比良は新羅の「しら」に通じて、「鬚」は、食を意味する「け」の霊「ひ」、つまり「けひ」に通じ、両々相まって、新羅からの渡来人が住み着いた場所で食の神を祀った場所だったというのです。

  これだけだと些かこじつけのような気がしなくもありませんが、総本社の所在地滋賀県高島市は、古来加羅や新羅の渡来文化や渡来人の足跡が濃厚にみられる土地でもあるのです。

  昨今、日韓の刺々しい関係ばかり目立ちますが、日韓は深い文化的人間的つながりで結ばれていることに思いを致す必要があるのではないでしょうか。