二つ目の目黄不動を求めて、台東区三ノ輪の養光山永久寺を訪ねました。院号を金碑院という天台宗のお寺ですが、創建年代は不詳とのこと。

  お寺は、日比谷線三ノ輪駅から数十メートルの飲食店街の一角にあります。

     三ノ輪目黄正門②

  ビルに囲まれた100坪もないのではないかという狭い境内に、小さな目黄不動様を納めた不動堂・コンクリート製の本堂・そしてお墓が所狭しと建てられており、気を付けてみないと見過ごしてしまうような誠に小さなお寺さんです。

    三ノ輪目黄不動尊     三ノ輪目黄不動堂    三ノ輪目黄不動本堂    三ノ輪目黄お墓

   当初、真言宗の寺院で唯識院と号していましたが、僧月窓が日蓮宗に改めて大乗坊蓮台寺と号するようになったそうです。その後、月窓が日光御門主本照院宮のお弟子になってお寺を出たのち、現在の永久寺に変わったとのこと。

   嘉永6年(1853年)の江戸切絵図で見つけることが出来ますので、少なくとも江戸時代から守られてきたお寺であることは間違いありません。

  それにしても、目まぐるしく所属宗派が変わっております。日本人の宗派的寛容さの現れなのでしょうか、特に軋轢などもないまま現在にまで至っているようです。

   ところで五色不動の内、目黒、目白、目赤の三不動の登場は、三代将軍家光に由来すると言われており、江戸時代の地誌にも登場しています。

  問題は、目黄不動です。文献上、目黄不動について最も古い記述がみられる書物は寛保元年(1741年)の国学者小野高尚が著した「夏山雑談」と言われています。そこには、大僧正天海が江戸の四方に赤・黒・青・  白の四色の目の不動を置いたとの記述がみられ、浅草勝蔵院の「目黄不動」の噂に言及していますが、目青や目黄の裏付は取れなかったようです。

  この浅草勝蔵院、雷門の東隣に建立されていたお寺で、明暦不動が鎮座されていたと言われていますが、明治半ばに姿を消してしまっております。ここで注目したいのが明暦不動です。このお不動様、メイレキが訛ってメキと呼ばれていたようで、ここから「すわ、目黄不動発見」と騒いでみたものの、噂の域を脱することが出来なかった、というのが本当のところであったと思われます。

  「夏山雑談」から70年近い歳月を経た文化5年(1808年)の「柳樽四十六篇」に、「五色には二色足らぬ不動の目」との川柳が残されています。

  これらの資料からすると、江戸末期でもまだ目黄不動は生まれていなかったと推定されます。

  ところが、明治半ばの浅草勝蔵院の消滅と時を同じくして目黄の名が広がり、あちこちに目黄不動が知られるようになったと言われています。

  このように、浅草勝蔵院が消滅すると同時にメイレキ不動の記憶と目黄不動伝説が合体して目黄不動が生まれ広まっていったという目黄不動の成立過程は、民間伝承の成り立ち示す興味ある一事例なのかもしれません。