目白不動へは、地下鉄副都心線雑司ヶ谷駅から5分程、江戸名所図会にも描かれ、古くから知られた宿坂道を下って行きます。江戸時代は竹木が茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かした話が今に伝わっていますが、昔日の面影は全くありません。
真言宗豊山派神霊山金乗院が、目白不動の正式名称です。僧永順が聖観音菩薩を勧進して観音堂を作ったのが始まりと言われていますので、永順の亡くなった文禄3年(1 54年)以前の天正元年(1573年)~文禄元年(1592年)の間に創建されたと見られています。
境内はあまり広くありません。宿坂道寄りの一角に不動堂があり、目白不動様が鎮座されています。
ここに鎮座される目白不動様は、当寺から1キロ程離れた関口駒井町(現文京区関口)にあった新長谷寺に鎮座されていました。このお寺、江戸時代から有名で、名所図会にも掲載されています。
寛永年間(1624~1645年)、三代将軍家光が新長谷寺の本尊であった不動明王像に五色不動の名を贈り、以後目白不動と呼ばれるようになったと言い、目白の地名はここに由来します。
残念ながら新長谷寺は、第2次世界大戦で壊滅的被害を受け、1945年(昭和20年)廃寺となり、目白不動様は当寺に遷座されることになりました。
坂道を登って墓地に足を踏み入れ、目白台に連なる丘からなだらかな南側斜面を眺めると、墓石群のかなたに高層ビルが広がるという江戸時代と21世紀が同居している不思議な風景が目に飛び込んできました。
その墓地の一角に、宝蔵院流槍術の達人としてい知られた丸橋忠弥の墓があります。
慶安4年(1651年)4~7月、由井正雪が幕府転覆を図る慶安の変を引き起こしました。その際、丸橋忠弥は、正雪の片腕として江戸で決起をしましたが、密告されて失敗し、同年8月10日磔刑となりました。多数の大名が減封や改易され、浪人が激増しているという時代背景の中で、浪人救済を掲げて決起したのでした。