これからしばらく亀戸七福神を巡ることにします。まず東武亀戸水神駅から、寿老人の鎮座される曹洞宗の西帰山常光寺を目指します。
徒歩5分、モダンな本堂が見えてきます。
お寺の縁起によれば天平9年(737年、行基草創の地に創建され、勝庵最和尚(天文13年(1544年)寂)により中興されたと伝えられています。「本尊は行基作の阿弥陀如来像とのこと。でもなぜそれが江東区登録文化財扱いなのだろうか?」などと考えながら、七福神のお一人、寿老人そっちのけで、阿弥陀如来様の拝観を願い出ました。
私の我が儘なお願いに、ご住職の奥様が親切に対応してくださいました。
「行基作の阿弥陀如来像とお聞きしています。国宝級の文化財ではないかと思い、拝観をお願いする次第です。」と願い出ると、「実は、先の大戦で焼失してしまいました。」と、お寺が戦災のため全焼の被害に遭った悲しい歴史をお話し下さいました。「辛うじて当時の六阿弥陀道標が残っております。」と教えられ、阿弥陀様の代わりに延宝7年(1679年)建立と言われる道標を拝んできました。
江戸名所図会に「春秋二度の彼岸中都鄙の老若男女参詣群衆せり」とあります。江戸時代、行基作の1本の木から彫られた6体の阿弥陀像を参詣する江戸六阿弥陀詣は、江戸庶民の行楽でした。当寺は、その六番目として有名なお寺だったのです。
江戸六阿弥陀詣の創祀については、聖武天皇の時代の従二位藤原正成の娘が豊島左衛門清光に嫁いだが嫁いじめに遭って川へ身を投げて死んでしまったという悲話にまつわり、行基が6体の阿弥陀像を刻んだという伝承が残っています。
行基は、日本で最初の大僧正と言われる奈良時代の高僧で、天平21年(749年)2月23日入滅と言われております。他方、豊島左衛門清光は治承年間(1177~1180年)、文治年間(1185~1189年)に源義家、義朝配下の武将であり、両者の生きていた時代に450年程の年代のずれがあります。これはB級歴史探偵たる私の宿題にして下さい。
大分寄り道をしてしまいました。肝心な寿老人です。
本堂のそばにある小さなお堂が寿老人堂です。残念ながら、中に鎮座されているご老人はよく見えませんでした。